絶望と思考とミニマリズム

日々の思ったことを何でも書き記すブログ。

朝活は夜活に勝る。

このブログは夜、就寝前に書いているのだが、本当は朝書きたい。

私は夜更かしよりも早起きの方が得意だ。特に日の出が早くなったこの季節、起きたくなくても自然と5時頃にはうっすら覚醒する。

そこで颯爽と布団を抜け出し、ココアなど飲みつつパソコンに向かえたらとても優雅な朝ではなかろうか。私はコーヒーを飲めないが、コーヒーの香り漂う優雅な雰囲気は大好きである。

 

そのためには仕事とかいう苦行を限りなく遅い時間から始める必要がある。

今の私の始業は早い。9時より早い。朝6時に起きても、日課の散歩をして朝食をとったらもうもうほとんど時間は残されていない。そして愚かな12時間労働である。ブログを書く時間は、就寝前の30分程度しか確保できないのが現状だ。

 

全ては労働のせいである。いや、労働は悪くない。4時間勤務の労働なら全く何ら不満を抱くことなく楽しく過ごすことができていることだろう。

朝活をするにもワークライフバランスの確保は必須である。

月残業50時間の憂鬱。

基本の作業時間が1日2時間とかなら、月50時間残業しても全く構わないのだが。

 

1日12時間働いていることになる。

私は誓って労働が好きなタイプではない。やらないで済むなら絶対にやらない。1日のタスクは散歩と読書で十分である。

にも拘らず、1日の半分を労働しているのだ。

正直心身に不調を来している。

早く人生が終わらないものだろうか……と、とりとめもなく考えている。

無能なので余計なことに時間がかかってしまう。

 

月10万円生活を達成。(つらい)

含み損が117万もあるため、月10万円生活を始めていた。

昨日で締め。結論として達成することができた。

そもそも私は月15万以下で生活していて、既に十分家計の無駄を削いだ状態だった。そこから更にマイナス5万を目指すという挑戦だ。

 

初月ということもあり、消費に対して非常に慎重になった。

先月までは慎ましくも窮屈な思いなど全くなかったのだが、「使ってはいけない」と思うと別段欲しいものがあるわけでもないのに重圧がある。

また、不幸にも仕事が多忙になった。12時間労働の日が続き、「お金を使ってはいけない」という強迫観念もあり(それでも別段欲しいものがあるわけでない)心身共に疲弊した一ヶ月間だった。

2,700円を残して、10万円生活チャレンジを達成することができた。

 

今回書きたいのは、10万円生活を達成するためのハックではなく、いくらで生活していようとも「困窮」を感じたら人は不幸を感じる、ということだ。

欲しいものがあるわけでもないのに、ふとした気軽な消費、例えばお菓子を買うだとか好きな果物を買うだとか、そういうところで「我慢」を感じてしまうと途端に不幸な気持ちに陥った。しかし、先月も果物なんて特に買っていないのである。

 

買えるけど買わないことと、買えないから買えないことは、心の負担に大きや違いがあることを知った。

人間は主体性を失うと不幸を感じるのかもしれない。お金を御している時は心は全く穏やかだが、お金に支配された瞬間、現実の状況は全く同じであったとしても、不幸を感じてしまうのだ。

 

お金に支配されないようにするには、「我慢」の回数を極限まで減らすことが重要に思う。

その方法にはいくつものやり方があるだろう。

ミニマリストの動画などを観て感化されるのは近道かもしれない。ただ、「我慢」が続いて心が疲弊しているととても共感できる心情にはなれないかもしれない。

今回の気づきから記すとすれば、お金の支配以外のストレス源を減らすことでかなり心は楽になりそうだ。当たり前のことだが大切なことである。仕事のストレス、対人関係のストレス、これらは散財によって気分を変えたいという欲求を促す。そんな時、お金の支配のストレスまであったなら心が疲弊するのは無理もないことだ。しかしそう簡単にストレス源から解放されるなら、誰も苦労はしないかもしれない。

 

そこでつまりは、「我慢」の回数を極限まで減らしネガティブにお金なことばかり考えることから解放されるには、引き絞った蛇口を少し緩めることがよいと思う。

10万円を達成することが目的であって、何もかもを我慢して苦行することは結果に過ぎない。

苦行にならなずに10万円を達成すればよい。それには、お菓子を買うだとか、休日のスタバでラテマネーを愉しむとか、たまにはハンバーガーが食べたいとか、少額の消費を堪えない勇気も大切に思う。

少額の消費は塵として積もっていくのはそのとおりだ。しかし苦行をすることは全く目的ではない。苦しむことなく10万円を達成できればそれが一番である。

たまの少額の消費をしたら10万円を達成できなかったのだとしたら、少額の消費が原因なのだろうか?趣味の消費なのでは?趣味の消費を抑えようがないのなら、そもそも少額の消費で命を削る意味がないのである。その月はそもそも10万円で生活することは難しかったのだ。

 

10万円生活とはそのレベルの生活であると理解した。

美しく張られたロープの上を寸分違わぬバランスで歩くことだ。

少しでもバランスが崩れればあえなく落ちてしまう。あまり慎重になり過ぎても、この生活を続ける意思を保つのが難しくなる。

どこにお金をかけるのかは人それぞれで、最低限の生活費も人により違うだろう。

ただ、推し活に5万必要だった時、88円のお菓子をいくら歯を食いしばって我慢しても、それはあまりにも儚い苦痛である。

事象を抽象化したら「問題ない」になるのか。

世の中にはあらゆる不幸、不満、不公平が充満している。

それはたった1人が感じているものであったり、多くの人が同じようなことを抱いていたりもする。

そして、その人達にとっては深刻である。

 

それらの不幸、不満、不公平は抽象化することができる。

有史以来初めて訪れたかのような現象はそうあるものではないからである。

以前もこういうことがあった、と言う人がいる。額面どおりならそう言っているだけであるが、単に思い出しただけなのかもしれないが、その深層心理としては「またか」とか「2回目だな」だと思われる。いい加減にしろ、のほうであれば思い出してくれてありがたいところであろうが、「(前にもあったから)問題ない」という使い方をすることもできる。

抽象化すると、ほぼ確実にあらゆる不幸、不満、不公平は以前にもあった何かだからだ。それを乗り越えて今があるのだから大丈夫、という言い分なのかもしれない。

 

しかし当事者にとってはその抽象化は必ずしもありがたくない。

前にあったことと今あったことは、抽象化したから同じに見えているだけで、特化すれば当然ひとつひとつの事情は異なる。

以前の一見似たような出来事がどのような顛末を辿っていようと、今ふりかかかる不幸、不満、不公平は目減りしないであろう。「だから問題ない」などとはもってのほかである。

心が弱っていると色々信じやすい。

心が弱るとは、なんだか常に落ち込んだ気分であるとか、楽しかったはずのことがあまり楽しくないとか、そういうことであろう。

 

そんな中で、差別的だと感じていた発言や、いわゆる陰謀論などと呼ばれている主張に触れると、思いの外すんなりと受け入れている自分がいる。

 

そうか、そういうこともあるかもな。と思いながら主張を読み終え、まるでそれが既知の事実であるかのようにそれを前提とした主張を他人にし始めたりする。

 

心の衰弱は恐ろしい。

目に見えないし、自分でその変化に気づけているうちはまだいいが、山月記のように、いつしか虎である時間の方が長くなってしまっているかもしれない。

 

そんな時の精神状態を思うと、正論であったりとか、そんなものは全く改心に役立たないであろうと思えた。

むしろ相手を壁際に追い込みいよいよ傾倒させようとしているのかもしれない。

 

優しくしたら目を覚ますというものではないだろうが、とにかく、詐欺に遭うようなことは避けたい。それでもきっと信じてしまうのだろうけれど。

だからやはり、別に鬱とは言わずとも心の不調をケアする機関があればと思っているのだ。今すぐに通いたいくらいだ。

含み損が117万ある。

なぜこうもつらいことばかりあるのか。

 

楽しいことよりもつらいことのほうが多い。

多いというより楽しいと感じることがほぼない。

なけなしの楽しさは雀の涙ほどで、津波のような圧倒的な力で押し寄せるつらさに飲み込まれる。

 

若い頃に思いを馳せるまでもなく、ほんの数ヶ月前まで慎ましくも幸せに暮らせていた。

私は株で100万円もの含み損を抱えている。

その重圧が酷いのだ。

 

ほったらかしにしていた。気づいたら100万もの含み損になっていたのだ。本当に愚かなことをしたと毎日後悔している。損切りする度胸がない。ただただ、日々、後悔して怯え続けている。

 

この含み損が私の生活から光を奪っている。

ほったらかしにしていたくらいだから今すぐ必要な資金ではないが、しかし自分の中の安心材料ではあった。

これだけの資産があるから自分は安心して生きられる、そう思っていた。

全く何もせずに100万円を失っていたのだ。

 

いっそ損切りしてしまえば楽になるのだろうか。

しかしそんなことはできない。100万あったらどれだけのことができただろう。取り戻すまでにどれだけの努力と時間が必要なのだろう。それだけのものを費やして、ようやく元に戻るのだ。

 

どうしてこんなことになってしまったのか。

どうしたら元に戻れるのか。

ただ日々落ち込み、怯えて過ごしている。